昭和記念公園です。
子たちの様々な表情をみると
無条件に嬉しいですね。
こんなとき短歌を詠む楽しみを持てたらいいなと思います。
今の私は子どもの夏休みの宿題をしているようなもので
自分から詠むというようなものではありません。
その意味でも、橘曙覧を知ったのは今日の喜びでした。
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今日は橘曙覧という歌人を知りました。
三十代から隠棲生活に入り
淡々とした人生を過ごした人です。
とても魅力的なj歌人です。
というより歌は明治以降の歌人のさきがけです。
江戸時代の終わりの人です。
これから、少しずつ紹介していきます。
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あるじはと人もし問はば軒の松あらしといひて吹きかへしてよ 橘曙覧(たちばなあけみ)
(大意 主人はいるかと人がもし問うたなら、軒の松よ、おまえに吹きつける「あらし」ではないが、「あらじ(いないでしょう)」と言ってその客を吹き帰してくれよ。)
(家業の紙商を辞め、家督を弟に譲って福井市南西の阿須波山(足羽山)に隠棲していた頃の歌)
むすめ健女(たけぢよ)今年四歳になりにければ、やうやう物がたりなどしてたのもしきものに思へりしを、二月十二日より痘瘡をわづらひていとあつしくなりもてゆき、二十一日の暁みまかりたりける歎きにしづみて
きのふまで吾が衣手にとりすがり父よ父よといひてしものを 橘曙覧
(大意 つい昨日まで私の着物の袖に取り付いて離れず、父よ父よと言っていたのに。足羽山の黄金舎に住んでいた天保十五年(1844)春、四歳の一人娘健女を痘瘡で亡くした時の歌。)
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また今日も悔いをかさねる原因は頭上に照れる太陽のためぞ 方代
両の手をむなしく組みているわれに一年はすぎ二年は過ぎ 方代
(「青じその花」という随筆集があります。その中に方代の写真が載っています。一生徳利を持ち歩いている姿を写している写真が何枚かあります。スナップのように見せていますが、写真を撮る人か方代の演出なのですね。それが方代という人なのですね。最後まで方代を演じて見せている。それがよけい悲しみを募らせます。)
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このごろは歌つくりさえ恥ずかしいそんな季節の顔になっている
初秋なり広場でただずむ人あれば語りはじめとどまることなし
これはまあ虫にうまれずよかったね語る母は阿弥陀仏なりしか
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